永 訣
夫の貴志が死んで。
錯乱状態に陥った私は、遺体から引き離され、鎮静剤を打たれて深い眠りについた。
そしてそのまま、丸1日――。
どうやら夢も見ずに眠っていたらしい。
全身の痛みで覚醒してからは。
しばらく、ぼんやりとしていた。
薬の副作用のせいだったかもしれない。
死んでしまった夫について、何も考えたくなかったのかも知れない。
白い天井。白い壁。両手に巻かれた白い包帯……。
そうか。
ここは病院なんだ。それも仮設の病院。
一度、ここを覗きに来た看護師が言っていた。
顔の痛みに、そっと触れてみると、絆創膏が幾つも貼られている。
鏡を見たらきっと、ヒドい顔をしているのだろうと、ぼんやり思う。
身体を動かすと、爆風で飛ばされた時に激しく打ちつけた背中が、ひどく痛んだ。
たぶん、これが一番、大きな怪我だろう。
皮肉にも、その痛みが自分の生を知らしめる。
痛みを堪えて上体を起こす。
私は生きてしまった。
貴志は逝き、私は生きてしまった。
一緒に死んでしまいたかった。
私は泣いた。
次から次へと、涙がとめどなく溢れ。
泣きすぎて……それから後は――。
ただ、ぼんやりとしていた。
不意にドアをノックする音。
私は、はっと我に返る。
ドアから入ってきたのは――。
神倉涼だった。
夫の、貴志のかつての女――。
神倉涼は、真っ直ぐに私を見た。
ああ、この眼だ――と思った。
夫は、この眼を愛していた……。
途端に胸が苦しくなる。
私はこの娘に嫉妬している。
女の私でさえ見惚れてしまいそうな、理知的で端正な面立ち、まるでモデルのような、すらりと伸びやかな肢体。
そして何より魅力的なのは、涼やかで意志の強そうな、美しい翡翠のふたつの瞳。
神倉涼は、やわらかく微笑むと、小さくて愛らしい唇を動かして、気分はどうですか?――と訊ねた。
私を覗き込む彼女の顔は、まだあどけない。
こうやって、あらためて顔をつきあわせると、この娘がまだ、ほんの17歳の少女なのだということが思い知らされて、複雑な気分になる。
ええ、お陰様で。
あの時は取り乱してしまって、ごめんなさい。
――私は答える。
いや、それは私も同じだから……。
ホントにごめんなさい。
彼女は少し困ったような顔をして、絹糸のようなプラチナブロンドを揺らし、申し訳なさそうに、ぺこり、と頭を下げた。
貴志は、ずっとあなたのことが好きだったと思うわ。
ううん……。貴志はあなたのことが好きだったわ。
彼女は私の言葉に少し驚いた様子だったが、うつむき加減に言った。
でも私はとっくに……イチ抜けちゃったけど?
彼女はすぐに顔を上げて、にこりと笑って見せ、もう終わったことだと、言外にその瞳が語った。
――ほんの、小娘のくせに。
やけに大人びた立ち振る舞いが、いちいち癪に障る。
私、あなたのことが恐かったのよ。
私が……?
真っ直ぐに私を見つめるふたつの翡翠が揺れる。
イヤな眼……。
私はつい、彼女から視線を外した。
離れていてもたぶん、あなたは私以上に彼のこと、理解していたと思うし、貴志も同じようにあなたのこと、解っていたと思う。
私には見えない、気づかないことが、あなたには解る。
私には、それが悔しくて仕方なかった。
あのひとは確かにあなたではなく私を選んでくれたけれど、何故かあなたの影が、いつもいつもつきまとってた。
そう、いつか貴志は私のもとを離れて、あなたのところへ戻っていってしまいそうな、そんな不安に囚われた。
奈津さん……。
貴志と神倉涼。
別れた後のふたりの間は――。
もはや恋ではなかったかも知れない。愛、というのでもなかったかも知れない。
でも――。
もっと深い別の何かがある気がして……。
ただひとつ、ふたりの心は確実に繋がっている、それだけは確信できた。
私には決して入り込めない、そんな絆がふたりにはある。
……それが悔しくて、そして恐かった。
神倉涼の瞳が小さく揺れて、わずかに翳ったような気がした。
でも。
彼女は、すぐに口許に微笑を湛え、私に言った。
それでもあなたの傍にはいつも、貴志がいたでしょう?
だって彼は、私ではなく、あなたの傍にいることを選んだんだから。
そうね……。
だけど……。
そうだけど、でも私は……。
あのひとのホントの心が欲しかったのよ。
……身勝手なこと、言ってると思うわよね。
そうね。勝手ね。
あなたも、貴志も。
神倉涼は、うつむいた。
とうとう、あのひとの心は私に残らなかったわ……。
長い沈黙の後、私がそう呟くと、彼女は顔を上げ、これまでとは違う、強い眼差しで私を見据えた。
そう、かな?
あなたがそんな風に思っているんだとしたら……。
貴志が、とても憐れだな。
彼のことだから……。貴志のことだから……。
きっと、命懸けであなたを護って、何が何でも生きようとしたんじゃないですか?
あなたと生きるために、頑張ったんじゃないですか?
彼ね。
最期にあなたの名前を呼びましたよ。
私ではなく、あなたを。
愛していたんじゃないですか、あなたのことを心から。
それに私はね……。
私は……。
毎日毎日、ものすごく忙しく過ごしていて、彼のことを想う暇すらなかった。
だから……。
何も心配することなんてなかったのに。
あなたが心配するようなことなんて、なにひとつ……。
……本当にもう、終わってたんですよ、私達は。
神倉涼は。
そう言って静かに微笑み、ごめんなさい、まだやることがありますから――と、去って行った。
ハッとなった。
私は突如、理解した。
彼女が背中を向けた時、彼女の中にある、はかり知れない淋しさを。
私は貴志のすべてが欲しかった。
ほんの欠片でも彼の心が誰かの元にある――というのが許せなかった。
神倉涼――という存在が、許せなかった。
だけど。
ほんの少し前まで……。
私の気持ちはすべて、彼女の気持ちだったかも知れない……。
そうだ、私は。
この娘から彼を奪った女だ。
あの娘は泣いたのだろうか。
貴志と別れたその日。
あの娘は泣いたのだろうか。
貴志の命が目の前で、自分の手の中で尽きたあの時。
あの娘は今。
何を思っているのだろう……。
どうしても好きにはなれなかったけれど……。
ふと、気づいてしまった。
憎むべき存在だった筈の彼女が。
私となにひとつ変わらない、ただの女だということに。
私は包帯だらけの両手を見つめた。
貴志は。
この手を握りしめ、私を励ましながら必死で走った。
神倉涼の言うように、生きるために。
ふたりで生きるために。
結局、私は――。
みんな失くしてしまった……。
貴志の心も、そして貴志という存在までも。
私はこれから、どこへ向かえばいいのだろう?
誰か答えて下さい。
誰か教えて下さい。
私から何故、貴志を奪ったのですか。
私だけ何故、生き残ってしまったのですか。
私にとって貴志がすべてだったのに……。
私にとって貴志が生きるすべてだったのに……。
あのひとのいない世界なら、私にはもう、生きる意味がない。
私は両手で。
洗面所の鏡を砕いた。
その欠片を手首に滑らせ、それから首筋にあてた。
バンッ――とドアの開く音。
猛然と飛び込んでくる誰か。
――神倉……涼?
腕を掴まれて私は暴れた。
手の中の欠片は神倉涼を傷つけて、床に落ちた。
私は神倉涼を振り解き、それを拾おうと手を伸ばした。
その時――。
パンッ、と頬を強く張られた。
我に返る。
なんだかイヤな予感がしたんで戻ってきたのよね。
そう言って、蒼褪めて立っている神倉涼。
その彼女の、白衣の袖が赤く染まり出す。
それにはかまわず、彼女は私の左手を取ると手早く止血した。
どうして止めたりしたのよ!!
私はそう叫んで神倉涼に取り縋り、死なせて欲しい――と懇願した。
私を見つめる彼女の顔が困ったように歪み、それから嗚咽する私をそっと抱きしめた。
ねえ。彼、あなたに何か言わなかった?
彼、あなたに生きて欲しい、って言わなかった?
答えてよ。
ねえ……。ねえ……?
見上げると神倉涼は……。
泣いていた。
涙をぽろぽろと流して泣いていた。
泣きながら。
私を胸からとんっ、と突き放す。
私だって……。
私だって愛してたよ。
貴志のこと、心から愛してたよ。
でも、でも。
傍にいてほしかった時に、彼はいなかった。
悲しくて泣いていた時も。
辛くて苦しくて喘いでいた時も。
淋しくて震えていた時も。
私の隣りに彼はいなかった。
隣にいて欲しかった時に貴志はいなかったんだよ。
勝手だよ。
勝手すぎるよ。
あんたも、貴志も。
私はどうすりゃいいのよ!!
……死なせないからね。
死なせないから。絶対に。
私よりも、あのヒトを愛していたっていうんなら、死んだりなんかしないでよ!!
叫ぶ神倉涼に、私は呆気にとられ、立ち尽くしていた。
それは……。
ずっと感情を押し殺していたに違いない、神倉涼の。
心からの叫びだった。
ゆっくりと。
その場に崩れてゆく神倉涼。
貴志は生きるため。
最後まで、決してあきらめたりはしなかった。
あの時――。
彼は苦しい息の下で、自分を置いて私に逃げろ、と言った。
私に生きろ、と言った。
その言葉に貴志の愛はなかったか?
――神倉涼の嗚咽が私に問う。
その言葉に込められた想いに応えたのか?
――傷つけた手首の痛みが私に問う。
ごめんなさい……。
ごめんなさい、ごめんなさい……。
私は跪き、蹲る神倉涼の背中をぎゅっと抱きしめた。
■END■