あの女だけはやめときな――笑いながら男が言った。 一生分の恋をしちまってるって話だぜ――男はそう付け加えると肩をすくめて行ってしまった。 思い出が相手じゃ勝ち目はねえからな――別の男が吐き捨てるように言った。 せいぜい頑張れよ――去り際に男は、にやり、と笑って手をかざした。 港に、ひとり、ぽつんと残されて、彼は仕方なく空を見上げた。 白い月だけが、冷ややかにそれを見下ろしていた。 |
■ 白い月 ■ 〜 アクセス記念ストーリー 〜 ★ ゲスト:500カウンターゲッター 七上司様 |
(1) もう十年近く前になるだろうか――。 土方竜は、行きつけの飲み屋で、柳明生(やなぎあきお)という男と知り合った。 大らかで気のいいその男とは、妙にウマが合った。 その後も同じ店で、二人は何度も会って酒を飲み交わしたが、お互い自分のことを話したことはなかった。 だから土方は、その男が何者なのか全く知らなかったし、別段、知りたいとも思わなかった。 知っているのは本当に名前だけだった。 その柳明生が――。 死んだ――という噂を聞いた。 柳と最後に会ったのは、いつだったろうか。 土方は、一人暮しの殺風景なアパートの一室で、缶ビールを片手に、ぼんやり考えていた。 しかし、記憶はあやふやで頼りないものだった。 あれは――。 確か、あの時は――。 (2) 土方が、ほろ酔い気分で、馴染みの店から出てくると、路地から柳が、ひょいと顔を出した。 「よう!柳。久しぶりだな。これからか?」 土方はニヤリと笑って尋ねた。 「いや。ホントはイッパイやりたいとこなんだが仕事でね。どうしてもダメなんだよ。」 柳はガッカリしたように肩をすくめて言った。 「そうか。そりゃ残念だな。でも、どうしたんだ?こんなところで。」 何故、店に入って来ないんだ――と土方は思った。 柳は、少しうつむいて、小さな声で言った。 「ここに来れば、あんたがいるんじゃないかと思ってね。」 柳の様子が、いつもと違った。 土方は怪訝な面持ちで尋ねる。 「おい。おまえ……何か話でもあるのか?」 柳は答えず曖昧に微笑んだ。 それから、鼻の頭を人差し指でしきりにこすりながら、おずおずと尋ねた。 「ちょっと頼まれてくれないか?」 真剣な眼差しだったので、土方は、少々うろたえた。 「何をだ?金ならねえぞ。他、あたれよ。」 土方の言葉に柳は笑って答える。 「金ならあるさ。高級クラブに通えるくらいにね。」 そしてすぐに真顔に戻ると、土方を真っ直ぐに見据えた。 「違うんだ。実は……を頼みたい。」 ちょうど、通りかかった車の派手なクラクションに、肝心なところがかき消された。 「なんだ?何を頼みたいんだ?」 「女だ。」 土方は耳を疑った。 「なに?今、なんて言ったんだ?」 唖然としている土方の両肩を掴んで、柳は懇願するように語気を強めて言った。 「あんたに力になって欲しいんだ。あんたを見込んで頼むんだ!俺の女の……力になってやって欲しい!」 「俺の……女?おまえの女ならおまえが支えるのが……って、おまえ……。なんかやらかしたのか?なんかやばいことでもしでかしたのか?」 今度は土方が柳の肩を掴んで、声を荒げる。 しかし、柳は歯を食いしばるようにして、うつむいてしまった。 「すまない。答えられない。だが俺は……悪いことはしていない、何も。世の中には『裏の世界』ってのがあってね。俺はそこに足を突っ込んじまったんだ。俺は、俺はアイツを巻き込みたくないだけだ!」 土方は眩暈がした。 何だか、やばいことに巻き込まれそうだ。 逃げ腰になる土方の目を、柳は再び懇願するように見つめる。 (まいったな……。どうして俺が――) しばしの沈黙の後、土方は納得しかねるように柳に尋ねる。 「俺はおまえのことなんか何も知らないんだぜ?おまえだって俺のことは何も知らねえだろう?惚れた女を託すなら、もっと適役がいるんじゃねえのか?どうして俺なんだ?」 「目を見りゃわかる。あんたは信頼できる。それにあんたならマークされていない。こう言っちゃなんだが、俺には親しい友達や信頼できる仲間ってのがいないんだ。」 「なるほど。どうもおまえは追われているようだが、そうなると、いずれは俺にも手が回るんじゃないのか?」 おまえの考えは甘いぜ――と言外に土方の鋭い目が語る。 「それは……そうだが。」 柳は悲しげに目を伏せた。 「あいつには……幸せになってもらいたいんだよ。」 土方はヤケクソになった。 「俺にとっておまえは単なる酒飲み友達で、恩義があるわけでもなんでもないからな。その女のこと、保証はしかねるぞ。それでもいいってんなら――」 土方の言葉に、柳は嬉しそうに顔を上げた。 そしてポケットの中から、皺くちゃになったメモを取り出して土方に手渡す。 「あいつの連絡先だ。頼むぜ、土方。」 土方は肩をすくめて、それを受け取ると、見もせずにポケットに突っ込んだ。 (やれやれ。俺もバカみたいに人が好いぜ。) 土方は大きな溜め息をひとつついた。 「俺は正直、気が重いよ。」 土方が柳の肩を叩く。 「すまん。」 大柄な柳が小さくなる。 「また……会えるんだろ?」 右手を差し出して土方が言った。 「ああ。またここで飲めるといいな。」 その手をがっちりと握り返しながらも曖昧に笑って答える柳。 「シケた面するな。俺の身にもなれ。それに――。」 土方の鋭く突き刺さるような双眸が柳を見据えた。 「つまらん覚悟だけはするなよ。」 「わかってる。」 柳は深く頷いて見せた。 それから――。 柳の姿は裏町の闇に溶けるように消えた。 (やれやれ。厄介なことになっちまったな。) 土方は重い吐息を落とした。 ポケットをまさぐって、煙草を取り出す。 (すっかり酔いが醒めちまった。まいったな。) (3) 数日が過ぎ――。 興味本位でかけた柳の女の電話は、一度も繋がらなかった。 仕方なく土方は、休日を返上してメモの女を探してみることにした。 しかし、住所のアパートには既に彼女の姿はなかった。 管理人に尋ねてみたが、行き先は知らないという。 土方は頭を掻いた。 (ちっ。いねえじゃねえか。これじゃあどうしようもねえ。) 柳の行方もわからない。 大体、柳がどんなヤツなのか何も知らないのだ。 女は愚か、柳でさえ探しようがない状態である。 もう俺にできることは何もない。 柳。悪いが、この件は……これで終わりだ。 土方は独断で手を引いた。 内心、ほっとしていた。 それから――。 あっという間に月日は流れた。 (4) 柳が死んだ――という噂を聞いたのは、宇宙開発局の職員用トイレでだった。 「おい!知ってるか?あの柳って男、死んだらしいぞ。」 「本当か?柳って、あの、うすらデカいジャーナリストの――だろ?」 「ああ。軍と政府内部をしつこく嗅ぎまわっていた男だ。」 「へえ……。あいつ、しばらく見ないと思ったら死んだのか。」 「どっかの国の軍部と中央政府の官僚間の癒着の噂があったろう?」 「ああ。兵器売買絡みの……だろ?限りなく黒に近い噂だったよな。」 「その柳ってヤツが真相を突き止めた――って話は知ってるか?」 「ああ。でもそれ、だいぶ前の話だろ。おい、まさか――ソイツ、口封じのために消された――とか?」 「ああ。専らそういう噂なんだ。なんでも、ヤツの女を盾にしたって話だ。」 「へえ……。女を死なせたくなければ秘密を守れ――ってことか。でも、結局は消されたってワケだ。」 「ホントだとしたらコワイよな。」 「こんな話、テレビドラマの世界だけだと思ってたけど……あるんだな。」 「ま、やばいことは見てみぬふりが一番ってことさ。」 「まったくだ。」 土方は、あの夜の柳を思い出した。 そうか。あいつはジャーナリストだったのか。 噂通り、柳は殺されたのだろう――と思った。 あの時――。 柳は、金ならある――と言った。 それは柳を安心させるために掴まされたものだったに違いない。 しかし――。 柳には分かっていたのだろう。 結局、自分は消されるのだ――ということが。 とっとと、すっぱ抜けばよかったのだろうが、なんらかの理由でそれができなかった。 恋人なら真実を話していてもおかしくない。 あいつは自分はどうでも、恋人にまで手が及ぶのを恐れていたのだ。 あいつ、本当は俺に女を守ってくれ――と言いたかったのだろう。 遠回しな言い方しやがって。 (5) 瞬く間に半年が経っていた。 柳の死を知ったあの時、土方の胸は、確かに痛んだ。 しかし――。 正直、この件から手を引いてよかったと思っていた。 厄介なことに巻き込まれなくて、ほっとしていたのだ。 だが、土方は、なんとなく柳の恋人に会ってみたくなった。 好奇心と下心。 探して――みるか。 女の名は、七瀬つかさ――と言った。 土方は、まず柳がよく出入りしていた大手の出版社を訪ねた。 「ああ。ホントだよ。柳は死んだんだ。事故として処理されたがね。」 編集長も柳の死を疑っていたようだが、歯切れはよくない。 「つかさちゃんはね。以前、ここに勤めていたんだよ。二人はここで知り合ったんだ。」 編集長は、そう言って、写真を持ってきた。 「どうだ?なかなかの美人だろ?彼女は…いわゆるデキるタイプだったんだがね。いささか突飛な行動が多すぎて……トラブルも多かった。それで――」 そこまで言って編集長が言葉を濁す。 「解雇したわけですか?」 土方が尋ねたが、編集長の態度は曖昧だった。 「マスコミってのもね。持ちつ持たれつ――ってところがあってね。」 「仰りたいことはよくわかります。」 「そう言っていただけると有り難い。つかさちゃんは、その後、フリーのライターとして、ぼつぼつやってたようだが、最近はタウン紙に市政に関するコラムを書いてたな。」 土方は、タウン紙を発行しているところを教えてもらい、出版社を後にした。 1時間ほど車を走らせて、住所のビルに辿り着く。 思ったよりも小さなビルだった。 ショートカットの理知的な面立ちの女性編集長が、土方をにこやかに迎えた。 「つかさちゃん?彼女、身内に不幸があったからって、ここを急に辞めちゃったのよ。美人で明るくって気さくな女の子だったから、ずいぶん人気があったのよね。なんたってファンクラブまであったんだから。彼女のコラム、ちょっと辛口で結構、人気があってね。私達も、彼女が辞めちゃってがっかりしてるのよね。」 残念ながら、ここの編集部にも七瀬つかさの行方を知る者はいなかった。 「あ。土方さぁ〜ん。最近なんですけどぉ、ボク、つかさちゃんを横浜で見かけたって聞いたんですよぉ。行ってみてはどうですかぁ。」 間延びした話し方をする、あまり有能ではなさそうな青年が、帰り際に小さな手がかりを残してくれた。 (7) それから数日が過ぎていた――。 (横浜で見かけたって言ったって、それだけじゃ探しようがねえよな。) 土方は海を眺めながら、大きな溜め息をついた。 すっかり日が落ちて、冷たい海風が吹きつける。 土方は、ぶらぶら歩き回るうちに港に最も近い歓楽街に来ていた。 (やれやれ。俺も何やってんだか。せっかくだから、どっかで一杯飲んでから帰るとするか。) 土方は、あまりけばけばしくない、落ち着いた佇まいの店を見つけた。 「いらっしゃい。初めて見る顔ね?」 入るなり、店の女が気だるそうに声を掛けた。 「ああ。次はねえかもな。」 カウンターの隅に、ドカッと座って、ぶっきらぼうに答える土方に、言うわね――と女は笑った。 土方はバーボンを、ちびり――と含んで、胸のポケットから写真を取り出した。 七瀬つかさの写真だった。 「この女を知らねえか?」 店の女は首を振った。 「あんた、警察の人?」 女は胡散臭そうに土方を睨んだ。 「いや……。」 「じゃ、あんたの女?」 「それも違う。俺は……ただの金貸しだ。この女のいたアパートに取り立てに行ったらいなかった。」 「ふ〜ん。大金持ち逃げされちゃったってワケ?」 「まあ、そんなところだ。」 土方は収穫無し――と見て、グラスのバーボンを、くいっ、と飲み干した。 「じゃな。」 土方は、やおら立ち上がると、金を置いてドアに手を掛けた。 その背中に向かって女が声を掛ける。 「ねえ。次はないなんて言わないで、また来てよ。」 「気が向いたらな。」 土方は振り向きもせずに出ていった。 (ホントに何やってんだ、俺は。この女、見つけ出してどうしようってんだ。) らしくない自分に土方は呆れた。 (8) 「なあ、あんた。」 土方が歩き出すと、後ろから誰かに呼び止められた。 振り返ると、髭面のやせた男が立っていた。 先ほどの店で、土方の隣りに座っていた男だ。 「何の用だ?」 土方の鋭い目つきに気圧されたのか、男は、わずかに顔を強張らせた。 「さっき、あんたがママに見せてた写真の女だが、俺、知ってるぜ。」 「ホントか?」 土方の顔が綻ぶ。 「ああ。1週間くらい前だったかな。若い男に絡まれていたんだよ。3対1だったからな。可哀想にやられちまうのか――と思って見てたんだ。」 「ナンだと!!」 事の顛末が容易に想像できて、土方は思わず声を荒げた。 男は慌てた。 「おいおい。落ち着いて話は最後まで聞けよ。その女は囲まれちまって、こりゃダメだと思った。そしたら――」 「そしたら?」 土方は、ごくり――と唾を飲む。 「悲鳴を上げたのは女じゃなくて、男の方だった。気がつくと女は、男の懐に入り込んでいて、腹にゲンコを叩き込んでやがったんだ。」 土方は男の話が予想外の展開だったので、目を丸くした。 「それで?」 「後の二人が驚いて、一瞬、ひるんだ隙に、逃げちまった。あっという間だったぜ。」 「それで……その女は?」 「さあ。それきり、ここらじゃ見かけてない。ナンにせよ、ありゃあ、大したあばずれだぜ。」 「そうか。ありがとうよ。」 土方は、がっかりした。 女の横顔が一つ知れただけで、結局、大きな手掛かりはなかった。 (やれやれ。柳の女、フツーの女じゃねえみてえだな。大したじゃじゃ馬じゃねえか。) 土方は、再び港へ向かった。 (9) 歓楽街のけばけばしいネオンが遠ざかって、薄暗い街灯が並ぶだけの寂しい道を歩く。 ふと、一軒、ぽつんと建っている喫茶店を見つけた。 土方は誘われるように、その店に入った。 カラン――。 ドアに吊るされたカウベルが鳴った。 店には、くたびれたカップルが1組、一番奥のテーブルに。 しょぼくれた男が1人、港の見える窓際のテーブルに。 土方は、辛気臭い――と思いつつ、先ほどの飲み屋と同じように、カウンターに座った。 「コーヒーを頼む。」 無愛想なマスターは返事もしなかった。 コポコポコポ――。 カップにコーヒーが注がれる音。 香ばしい香り。 土方の知らない、ゆったりとした、やさしい音楽が流れている。 疲れていた土方は、なんだか眠たくなった。 カチャリ――。 無言で置かれたコーヒー。 土方は、コーヒーの味と香りを確かめるようにブラックで一口含む。 (まあまあだな。) カラン――。 カウベルを鳴らしてドアが開く。 ふとドアを振り返った土方は、入って来た客の顔を見て唖然とした。 なんと、驚いたことに、やって来たのは七瀬つかさ本人だった。 (10) (まさか……嘘だろ?) 探し当てるのは無理だろうと思っていた尋ね人を、呆気なく見つけてしまって、信じられないといった面持ちの土方。 彼女は、凝固している土方を一瞥しただけで、カウンターの一番奥の席に座った。 「ホットココア。」 七瀬つかさは、写真よりもずっと美人だった。 やつれて、いささか荒んでいる様子ではあったが、それでも土方は彼女の美貌に見惚れた。 「何じろじろ見てんのよ、オッサン。」 高飛車な声が土方の耳に刺さった。 「オッサンだあ?」 オッサン――と呼ばれて土方は、ようやく我に返った。 「オッサンじゃない!俺は土方竜だ。資源輸送船団の護衛艦艦長をしている。」 土方は嘘をついた。 土方は司令部の人間を口論の末、殴り倒して病院送りにしてしまい、護衛艦艦長の職を解雇されていたのである。 土方は、一瞬、天井に目を泳がせたが、つかさの瞳を改めて真っ直ぐに見つめた。 「その艦長さんが私になんの用?」 つかさは警戒している。 「あんたの名前、七瀬つかさって言うんだろう?」 「だったら、どうだっていうの?」 ぴりぴりと空気が張り詰める。 カチャリ――。 つかさの前に、ココアのカップが置かれる。 「俺は……あんたのよく知っている男の……飲み友達だったんだ。」 土方は、できるだけ穏かに話す。 しかし、つかさは警戒心を解くことなく、挑むような瞳で土方を睨んでいた。 土方は目を逸らすことなく、つかさの瞳を、ただじっと見つめた。 やがて彼女は掠れた声で言った。 「……それって、明生のこと?」 土方は無言で頷く。 「そう……。」 つかさは、土方から目を逸らすと、小さくうつむいた。 土方は、そんなつかさの横顔を労わるように見つめると、ぼそりと言った。 「あいつ、あんたのこと、えらく気にかけていたぜ。」 一瞬、つかさの表情が凍りついたように見えた。 (11) 「死んだわ。あの人。」 つかさは、スプーンでココアをかき混ぜながら、消え入りそうな声で言った。 「そうらしいな。」 辛そうに土方は答える。 「事故なんかで死んだんじゃない。殺されたのよ。」 つかさは、低く抑揚のない声で、呻くように言った。 土方は重い空気に押し潰されそうだった。 長い沈黙。 この場に不似合いな、アップテンポの曲が流れ出す。 「アイツは俺に……あんたに幸せになって欲しいと言った。そして、あんたの力になってやって欲しいと頼んだ。」 つかさは、土方の言葉に小さく笑った。 「明生は……ずっと行方不明だったのよ。私のことを頼まれるほど、あなたはあの人と親しかったの?」 「いや。ヤツについて俺が知っているのは、信憑性のない噂だけだ。大体、ヤツがジャーナリストだったということだって、最近、知ったんだ。それも偶然にな。アイツのことは何も知らない。だから、あんたのことを頼むと言われても、どうしていいかわからないのが正直なところだ。」 つかさは、ふんっ、と鼻で笑った。 「そりゃそうだわ。なのに私を探したりなんかして……あんた、バカなんじゃないの?」 「そうかもな。ただなんとなく、あの夜のアイツの顔を思い出すと、知らん振りもできなくなっちまって――」 「私のことは気にしなくていいわ。――っていうか、放っておいてほしいわ。」 土方の言葉を遮るように、つかさが声を上げる。 「そう言われると思っていたよ。」 土方も、ふんっ、と笑って言った。 「だったらもう、会うこともないわ。私のことも明生のことも忘れてくれてけっこうよ。」 「あんた、ひょっとして、アイツの代わりに――」 「さあね。とにかく、あんたには関係ないことよ。」 土方は、肩をすくめた。 つかさは、すっかり冷めきってしまったココアを飲み干すと、お金を置いて足早に出ていった。 「ふふん。」 土方は、ひとり苦笑した。 関係ない――か。 確かにそうだ。 彼女を探し出したい――という気持ちは、明生に頼まれたからではなく、下心だ。 七瀬つかさは、わかっていたんだ。 (しっかりやれよ、じゃじゃ馬。) 土方は、冷めたコーヒーを飲み干した。 (12) 兄さん。あの女に惚れたろ――背中で声がした。 あの店にいた女連れの男だった。 あの女だけはやめときな――笑いながら男が言った。 一生分の恋をしちまってるって話だぜ――男はそう付け加えると、すっかり化粧の剥げた女の肩を抱いて行ってしまった。 思い出が相手じゃ勝ち目はねえからな――別の男が吐き捨てるように言った。 窓際の男だった。 せいぜい頑張れよ――去り際に男は、にやり、と笑って手をかざした。 土方は暗闇に消えていく、うらぶれた男女の背中を見送りながら、溜め息まじりに呟いた。 「別に、あの女とどうこうなりたいわけじゃねえさ。だが、確かに俺好みの……いい女だったよ。」 土方は夜空を見上げた。 彼女なら――。 彼の無念をいずれ晴らすだろう。 彼女ならきっと――そんな気がした。 けれども、それで彼女は幸せになれるのだろうか――ただ、それだけが気がかりだった。 海からの風が強くなった。 雲の流れが一段と速くなる。 白く冷ややかに光る今夜の月は、皮肉な笑みを浮かべる、あの女のようだ――と、土方はぼんやり思った。 |
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