///// 梅雨晴れ //////////////////////////////////////////



『悪いな。忙しいのに呼び出して。』
彼は電話の向こうで、すまなそうに頭を掻く。

突然の呼び出しに驚いて、「どうしたの?」と訊ねようとした彼女を遮るように、彼が訊く。
『あのさ。メシ、もう食っちまったか?』

「え?」
なんだかわけがわからなくて、きょとん、としている彼女。

『メシ、食ったのか?』

「あ……ううん、まだよ。今日は忙しかったから、お昼、これからなの。丁度、カフェテリアに行こうとしてたとこ。」

『そうか。よかった。今日、ちょっとだけ時間ができてさ。昼飯くらいなら一緒に食えそうかな、と思って。だからその……これから、ちょっと出て来ないか?』
彼は照れ臭そうに顔を赤らめながら、今度は鼻の脇を掻く。

「うん、でも――」

『着替えなんかいいぞ?時間ないんだ。』
もどかしそうに早口で言う彼。

彼女は、わかった――と頷いて、窓の外を見る。
今日も鉛色の空から降り頻る雨に、ビルの群れが霞む。
いつもなら、鬱陶しくて億劫な雨降りだけど、今日は気にならない。
彼が。
彼が待っているのだ!
彼女は制服のまま、彼の待つ公園へ急いで向かった。


************************************





雨の中を滑り出した車は、大通りから脇道に逸れ、ダウンタウンに入っていった。

「今日はここ、付き合って。」

間もなく彼がそう言って、指差したその先には。
塗装の剥げかけた、ラーメン屋の小さな看板。

「実は佐渡先生から聞いて、よく来るんだ。見たとこ、汚ないんだけどさ、すごくうまいんだぜ?」
彼は助手席の彼女を見やると、にっこりと微笑んだ。

あんまり嬉しそうに、幸せそうに笑うから、彼女は、いつになく、どきどきしてしまう。
つきあい始めて、もう2年余りになるというのに、こんな彼の表情は初めて見る。
彼女は、ちょっと幸せな気分になって、彼の肩にもたれた。

「うわっ!ばっ、ばか!」
「きゃあっ!」

しかし。
純情で照れ屋の彼は、危うく車のハンドル操作を誤るところだった。


************************************



駐車場に車を止めると。
彼は傘も差さずに飛び出して、助手席のドアを乱暴に開けた。
そして、呆気に取られている彼女の手を掴むと、強引にシートから引っ張り出した。

「ちょっ、ちょっと!」
「ココ、『売切御免』なんだよ!」

そう言うや否や。
うろたえる彼女を見向きもせず、ただ、その肩をガッと抱き寄せると、雨を片手で避けながら駆け出した。

肩を力強く抱き込んでいる逞しい腕。
そして、そこから伝わる温もり。
間近で感じる、彼の息遣い。
ホントは雨で濡れるのはイヤなんだけど、でも、ずっとこのままで。
ずっとこのままでいたい――。
ああ、今日の私は、なんて幸せなんだろう!!

「ふぶっ……。」

彼女が、うっとり、と目を閉じかけた時、何かが、べちょっ、と顔に張り付いた。
ラーメン屋の、色褪せ埃臭い暖簾だった……。

「おい、何やってんだ?」

「んもうっ!」
彼女は憮然と頬を膨らませた。

彼は彼女の想いなど、知る由もなく。
息を弾ませ、ガラガラッ、と勢いよくドアを開ける。

「オジサン!俺達、間に合った?」


************************************



今日が、ひどい雨降りで本当に良かった。
そう言いながら、彼は満面の笑みを湛えてラーメンをずり上げる。
ふたりが店に滑り込んだ時、彼が目指した醤油ラーメンは、残すところ、あと3食だった。

「ううっ。うまいなあ!!雨に濡れた甲斐があったってもんだよな。なあ、雪?」

「ウン。ホント、美味しいわね!」
雨に濡れて跳ね返る髪を気にしつつも、彼女は笑顔で答える。

彼が絶賛するとおり、ここの醤油ラーメンは絶品であった。
しかし、彼女にとっては。
向かいの彼の、いつになく無邪気な表情が何よりの御馳走であった。

ひと粒で二度美味しい――というのをどこかで聞いたが、正にこのことだわ、と彼女は思った。


************************************



「なんだよ、さっきから。」
彼は箸を止め、顔をしかめた。

「ううん、別に。」
彼女は慌てて首を横に振る。

「……。」
怪訝な面持ちで彼女を見つめる彼。

「ほら!!やっぱし見てンじゃないかァ!」

「だって……。」
ちょっと、うつむいて上目遣いに彼の表情を伺う。
すると彼は、何故だか顔を赤くして慌て出す。
そんな彼が。
なんだかすごくかわいらしく見えて、ふふっ、と微笑んでみせる彼女。

「な、なんだよ。なんだっていうんだよ。わかんねえなあ。」
今度は、拗ねたように口を尖らせて、彼は下を向いてしまった。

「わかんなくていいんだもん。」
そう言って。
やっぱり、微笑んでいる彼女。
……ちょっと、かわいい。
彼も思わず苦笑する。

「……ったく!いいけどさ、早く食えよ。麺、のびちまうぞ!」
再び、自分のどんぶりに目を移すと、スープを一口飲み、彼女のどんぶりを指差しながら彼は言った。

「あ……。」
麺が。
スープを吸いに吸っていて、ももももももっ、と盛り上がり始めていた。
これはもう既に。
ラーメンなんかではなくなっていた……。

思わず凝固する彼女を指差して、ぷっ、と噴き出す彼。

「何よ……。」
今度は彼女が口を尖らす。

彼は、たまらず笑い出した。
声を上げて、まるで子供みたいに。

「バーカ!じろじろ、じろじろ、ヒトの顔ばっか見てっからだ!」
ひとしきり笑った後で今度は。
穏やかな、やさしい顔になる。

思わず、どきり――とする。

――だって。だって私は見ていたいんだもの……。

――忙しくて、なかなか会えないからかも知れないけれど。
私ね。
あなたのこと、いくら見ていても飽きないのよ。

――なんだか、赤ちゃんみたい。
だって、赤ちゃんも。
いつまでもいつまでも、見ていて飽きないでしょ。

――1分でも1秒でも。
少しでも長く見つめていたいの。
どんなにわずかな表情の違いも、逃したくはない。
どんな仕草も表情も。
すべてが愛しくて、視線を外すことなんてできないの。

「何、呆然としてるんだよ、まったく!余計なことに気がいってるから、のびちまうんだよ。もったいないなあ!貸せ!」
苦笑しながら彼は。
彼女からどんぶりを取り上げると、膨れ上がった「麺」をもそもそと食べ始めた。

「いいわよ!食べ過ぎちゃうわよ!」

「ばかやろ!残しちまったら、この店のオヤジさんに申し訳ないだろ!それに今日、こいつにありつけなかったヤツのキモチも考えろっ!」

「わかったわよ……。」
彼女が申し訳なさそうに、うつむく。

「まったく、おめえは幸せな男だな!」
突然、厨房の店主が彼に声をかける。

「ごほっ!!げほっ?」
驚いて咽返る彼。

「大丈夫?あっ、やだもう、スープ、顎に回ってる!」

「ごほっ!ぶふっ!」
悶絶している彼。

「んもうっ!古代君たら汚いなあ!」
口の中の麺を噴き出す勢いで咳き込む彼に、ハンカチと水を差し出しながら、彼女は、ちら、と店主の様子を伺った。

店主は――。

「大事に守ってやれよ。」
彼の背中に更にそう付け加えて言って、今度は彼女に視線を移すと、ニッと意味ありげに笑ってみせた。

(やだ、もう!)
彼女は慌てて下を向く。
顔が熱くなる。
もう、火が出そうなくらいに。

彼は彼で。
更に激しく、死ぬほど咽返っていた。


************************************



「ご、ごちそうさまでした……。」

レジの前で、ふたりは。
揃って真っ赤な顔のまま、蚊の鳴く様な声で、やっとそう言った。

そして店主はというと。
おつりを手渡しながら、ニヤッと笑ってこう言った。
「いや。俺の方がごちそうさん、だったんだけどよ。」


************************************



ガラッ、と戸を開けて、暖簾をくぐる。

「あっ!」
揃って、声を上げる。

あんなに強く降っていた雨は既に上がっていて。
梅雨晴れの青空と、そこにうっすらと架かった虹が、ふたりを出迎えた。

ふたりは、にっこりと微笑みあうと、どちらからともなく手をつないだ。

彼女は彼の横顔を、そっと見つめる。
このひとは。
厳しい表情をしていることの方がほんとに多い。
でも、今日の彼は……。
今日の彼は。

溶けるように消えてゆく虹。
数時間後には、宇宙と地上で、また離れ離れ。
ふたりは短い逢瀬の時を惜しむように互いに寄り添って、空を見つめる。
彼は彼女の肩を抱き、それから、その髪にそっと唇を寄せた。

「虹は消えちゃったけど、俺達の心はちゃんと繋がってるからな。」
彼は照れ臭そうにそう言って、ニッと笑った。
彼女は黙って頷いて、でも、やっぱり淋しそうに彼を見上げた。

彼は。
困ったように頬を掻いていたが、やがて思い切って言った。

「しょうがないヤツだな。淋しくならない、おまじないだ。」

次の瞬間、彼の唇が彼女の唇を捉えた。
軽く触れ合うだけの。
でも、愛情のいっぱい詰まった、やさしいキス。

「ラーメンの味がした。」
彼女は、そう言って笑うと、彼の胸にしがみついた。

「ねえ、古代君。」
「ウン?」
「大好きよ!」

「う……。」
彼は大いに照れて。
空を見上げたまま、動けなくなっていた。


************************************



いつも時間厳守の彼女だが、今日は時間ギリギリに職場に戻る。
パウダールームにはもう、自分と、いつも時間ギリギリの後輩のふたりだけ。
(急がなくちゃ!)

「ああっ!!森センパ〜イ!スカート、大変なことになってますよぉ?」
後輩が叫んだ。

「え?」
雨に濡れて跳ねまくる髪を直すのに必死だった彼女が、思わず振り返る。

「後ろ、思いっきり跳ね上げでますよぉ、泥水ぅ〜。」

「ええっ!?」
後輩の指し示す指先を辿り、身体をよじる。
黒ずんだ大小の点・点・点……。

「あ……。やだぁっ!!」

しかし。
そんな叫び声を上げつつも彼女は。
何故か、ふふっ、と微笑んだ。
ああ、これは。
あの時、雨の中、車から駆け出した時だわ――と。

後輩は、そんな彼女を怪訝な面持ちで見つめていたが。
その微笑が、とても幸せそうに見えたので、彼女に何があったか、おおよそ見当がついた。
後輩は、にっこり笑うと、ポンと肩を叩いて言った。
「センパイ。何かとってもいいことがあったみたいですね。」

「えっ?ああ、まあ……ね。」
と言って彼女は顔を赤らめ、照れ臭そうに首をひょいとすくめて見せた。

――まったく、このヒトときたら、ホントに純情なんだから!!
後輩は呆れて苦笑した。

「あ、やだもう!時間が――」

「いいですよ、センパイ。長官には私がテキトーに言っときますから。その髪、直しちゃって、ゆっくり着替えてきて下さい。」

「でも――」

「いいですって!!センパイってば、いつも昼休み返上で頑張っちゃってるじゃないですかぁ。まあ、それもこれもワタシら後輩組のミスのせいだったりしますしね。たまには甘えちゃって下さいよ。ね?」
後輩は、じれったそうに早口でそう言って、意味ありげに微笑むと、ドアを出るや否や脱兎のごとく駆け出していった。

「まったく、あの娘ときたら!」
彼女は半ば呆れながらも、いつもは頼りない後輩の心遣いが嬉しくてたまらなかった。

「今日はホントにいい日だわ!」
彼女はブラシ片手に再び鏡を覗き込むと、くるんと跳ねた髪をツンツンとつついて、にっこりと微笑んだ。





*******************************************************************************

<ちょほいとヒトコト>
『彩の惑星』 様へサイト開設2周年の記念に贈った作品。
サイトオーナーのなほこさんには、いっつも素敵なイラストを描いていただいておりまして、ホントにお世話になりっぱなしであります。



BACK